飯田哲也×小林武史 (2) 「なぜ原子力を選んだのか?」
これは安全性のリスクよりもむしろ、金融投資リスクなんです。実は世界的には、特に金融機関が原子力には怖くて投資や融資ができないというトレンドがはっきりあります。
サウステキサスという原子力発電所は、いわゆる2基の原発を当初52億ドル、1ドル100円とすると約5200億円で5年前に計画したところ、今の見通しは180億ドル・約1兆8000万円にまで高騰して、アメリカの投資家がみんな逃げてしまったんです。フィンランドのオルキルオト原子力発電所でも、当初32憶ユーロ、約4000億円で原発を1基作り始めたところ、どんどん追加費用がかさんで、今や1兆5000億円くらいになっているんです。しかも、遅延に次ぐ遅延で、いつ完成するか分からない。そういった巨額投資で長期間回収しなくてはいけないものは、ものすごくリスクがあるじゃないですか。
ところが風力発電は、その場に持ってくれば早くて半日、長くても3日で発電し始めるんです。それは大げさとしても、実際には計画の段階から数えても2年ぐらいで完成するんですね。そうすると、融資を決めて2年後には投資回収ができて、1基数億円で作れるので比較的小規模で分散投資できる。そういうマネーのロジックで、完全に自然エネルギーの方が勝っているんですね。
また今回の事故ではっきりしているのは、原子力損害賠償制度で支払われる、原子力1基あたりわずか1200億円しかない保険金では、カバーできないほどの巨額の損害が出るだろうということです。しかも、その保険金すら、地震という天災だから支払われない可能性が高い。
少なくとも、今の日本の原発は、国民が損害賠償を被ることを人質に取って運転されているということなんです。本来コストのことを言うのであれば、国民の税金に暗黙に頼った原子力ではなくて、「再びこんな事故が起きたとしても、その損害は全額保険でカバーできる保険に入りなさいよ」というのが筋だと思うんですね。
原子力の官僚がどういうマインドや思考方法で仕事をしているのかというのが分かりました。もちろん真面目なんですけれど、彼らの考え方というのは、本当の安全性というよりも、法律の条文の字面をどう合わせるか、なんですね。霞が関文学を駆使した、いわば「文学的安全性」とも言えます。たとえば、マスコミや反対派に突っ込まれないか?という視点で、字面をチェックするだけ。だから今回の事故でも、本当に津波の高さはこの設定で大丈夫なのか、とか津波が来て電源が失われたらどういう安全性を担保できるのか、ということを彼らは真剣に追求したわけではないのです。
1992年です。そのちょっと前から90年代にかけてスウェーデンに何度か渡ったんですが、それは私にとって圧倒的な衝撃を受けた体験でした。
「原発推進・反対」という二項対立の議論は、1980年の国民投票ですっかり卒業していて。原子力はこれ以上増やさないという大きな合意のもとで、あとは現実的な核のゴミをどうしていくかであるとか、安全性を実質的にどう高めるのかという課題を、推進も反対もなく、極めて実質的にやっていたことに、軽いショックを受けました。たとえば被曝軽減に関しても、スウェーデンの場合は「原子力の機器の設計と作業の手順の標準化を徹底的に突き詰めることで、作業員の被ばくを個人でも全体でも減らす」ということを、みんなで知恵を尽くして設計を変えることまでやっていくので、集団被曝線量がものすごく低いんですね。それ以上に、圧倒的に衝撃を受けたのはエネルギーを民主主義で決めていく、さまざまな地域社会の取り組みですね。私は『北欧のエネルギーデモクラシー』(2000年、新評論)という著書でも書いたんですが、
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